読書関連

かが屋の「日常を切り取る」コントと短歌の親和性。

「日常の再現」だけの笑い

かが屋が好きです。

「お笑い第七世代」の中でも実力派と名高いコント師、特徴はやっぱり「リアル感」にあると思います。

ロバートのような現実離れした設定で勝負するのではなく、些細な日常を切り取って笑いにする。

日常のあるあるをネタにしたコント師には東京03がいるけど、それともまた違うような。

見せたい日常を強調すらしないんですよね。03のコントはあるある設定からの3人のオーバーリアクションが持ち味だと思うんですけど、かが屋はそれすらない。

本当に他人の日常を再現するだけ。それで面白いんだから何というか不思議というか、スゴイ。

どうやったらこんなネタ思いつくんだろうなあと思っていたんですが、加賀さん(ネタ作ってるほう)の趣味が「自由律俳句・短歌」だと聞いて納得しました。

かが屋のコントは日常の切り取り方がすごく巧いのかなと。

短歌の「日常を切り出す」魅力

ぶっちゃけ自由律俳句については詳しくないですが、短歌は(おそらく自由律俳句も)「誰もが目にする風景に情緒を見出す」点が魅力の一つだと思ってます。

三階の教室に来たスズメバチ職員室は一階にある

ハレヤワタル、『ぼくの短歌ノート』(穂村弘著、講談社文庫)より

上の歌はただ状況を説明しただけ、誇張もなんもないですが、「スズメバチ」の威圧感、職員室の先生たちはこのピンチに気づいていないだろう絶望感などが書かれる情報の外から伝わってきます。

そして、「三階の教室にスズメバチが来た」思い出がない人でも何となく懐かしく思えてしまいます。

わが使ふ光と水と火の量の測られて届く紙片三枚

大西民子、同上

これは毎月届く水道光熱費をくどく言い換えた一首。

スパゲティ素手でつかんだ日のことを鮮明に思い出しまちがえる

笹井宏之、『えーえんとくちから』(ちくま文庫)より

「スパゲッティ素手でつかんだ」経験は珍しいですが、「鮮明に思い出しまちがえ」てしまうような強烈な過去は多くの人が持っているはず。

この人にその日何があったのか、想像してしまいます。

これらの歌で書かれることはすべて特殊な体験ではありません。みんなが体験しているような日常を再び取り出して、そのシーンだけを注目させることでそこに元々あった「情緒」を提示させているのだと思います。

で、かが屋の話に戻りますが(長かったですね)、彼らのコントもこれに似たような仕組みになっているのかなと考えました。

かが屋のコントは一度はどっかで見たような風景、それがなぜか笑えてしまう。

短歌と同じで、みんなが体験したまま素通りするような日常を切り取って、2人のエグイ演技力で再び再現することで、そこに元々あった「笑い」の部分を可視化しているのかなと思います。

その日常に潜む「笑い」を見つけ出せるのは、自由律俳句・短歌に造詣の深い加賀さんならではの才能なのでしょう。

すべてを語らないスタイル

こう見ると、かが屋コントの特徴である「すべてを語らない」スタイルにも納得できます。

コント内ですべてを説明せずに、背景をお客さんの想像に任せるからそこに面白みが生まれる。

これは限られた文字で世界を描写する俳句・短歌と同じ発想ですよね。

この「語らない」スタイルも、ただ説明を端折ればいい、ってほど簡単ではないはずで、最低限の情報で理解させるためにどのシーンを見せるか、を綿密に構成されているはずです。

そこらへんのセンスも自由律俳句や短歌に触れるうちに磨かれていったのでしょうか。

おわりに

かが屋の秀逸なコントは、加賀さんの俳句・短歌スキルの高さに由来しているのではないか、という話でした。

ということは、俳句・短歌が好きな人はかが屋のコントにもハマり、

かが屋のコントが好きな人は俳句や短歌にもハマるのでは?

割といい線言っているかもしれません。