多少のネタバレ含みます
川上未映子さんの『あこがれ』という本が、10本の指に入るくらい好きです。
『あこがれ』は2人の小学生(麦くん、ヘガティー)がそれぞれの「あこがれ」を通して大人の世界を知る物語です。この2人の「こどもが大人の世界を知る瞬間」がとてもエモいですよね。
最強の書き出し
とりわけ好きなのが「ミス・アイスサンドイッチ」の章の書き出し。
フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415。四十代まで430、野菜ブーツはいつでも500。512は雨のお墓で、夕方、女子がいつもたまってる大猫ベンチは607。
話しかけられると数がわからなくなってしまうから、ぼくはいつもうつむいて、できるだけ誰とも目をあわさないように、白い線のうえを歩いてゆく。ときどきひび割れてときどきとぎれる線のうえを、規則正しく、かくじつに、ぼくはスニーカーの靴底をぴったりつけてリズムをふんであるいてゆく。731で記念品。820でウェナミニ、ウェナミニ。880で大作家。912でフランス人。ここからうんと人が多くなって、自転車が未来のヤギみたいに並んでる。
自動ドアから出てくるのは食べ物を入れてずっしりした白いビニル袋を両手に持って、これからきっと家に帰る人たちだ。だいたいは大人。五人にひとりは白くて頭が緑のネギを買っていて、はち切れそうな底もある。あそこに入ってるもののほとんどが誰かの口に入っていくんだなと思っていると、こんばんは、こんにちはって、急に声をかけられてはっとする。ぼくも挨拶をなげかえす。ぶつからないように人をよけて、じゃがいも帯までは930。そして、ミス・アイスサンドイッチまでは、いつだってちょうど950。
これ本当にすごいですよね。小学生にしかない視点、もっといえばこの子にしかない視点で「ミス・アイスサンドイッチ」までの経路を描いていて、ワクワク感が半端ないです。長編映画のような導入ながら、小説でしかできない表現方法。やばい!
読者の僕らには解読不可能な、記号じみた単語の数々に囲まれた彼の世界は、「ミス・アイスサンドイッチ」を筆頭にしたヘガティー、ドゥワップ、リッスンなどのあだ名をもった登場人物らにも支えられています。
この書き出しがさらに効いてくるのはこの後。
麦くんのあこがれ、ミス・アイスサンドイッチに会いに行き、特段ドラマチックな展開もないまま別れを迎えてしまった後の帰り道の描写。
スーパーのわきにきちきちに並べられた自転車。クリーニング屋さんの看板の蛍光の色をしたまるっこい文字。政治家の顔がいっぱいに写ってる四角いポスター。ペンキがはげて途切れ途切れになった白線。もう誰も住んでいる気配がなくて古くなった家の紙とかちらしがとびだしている郵便受け。名前を知らない緑の草たち。たくさんのダンボールに野菜を入れてトラックに積んで売りに来ているいつものおじさん。このあいだヨークシャテリアを見かけた茶色のベンチ。何に使うのかはわからないけれど、誰かの庭の、水をいっぱいにためた大きなたる。掲示板にはられた何枚かのお知らせの紙。マンションの三階の端っこのベランダから飛びだしてる色あせたサーフボードのゆるいさきっちょ。鉢植え。ドアの前の三輪車。表札。マンホール。門とかゴミ箱。ぼくはそんなものを眺めながら、ぼろぼろにはがれた白い線のうえを歩いていった。
先の書き出しのような独特の世界観が取り払われてる!子どもながらの空想的な世界から、無機質な現実世界に変わってしまっています。
ミス・アイスサンドイッチというあこがれの存在と別れると同時に、麦くんの世界もひとつきりがついたような、そんな描写です。(ミス・アイスサンドイッチの顔は大人から「整形に失敗した醜い顔」と揶揄されていましたが、麦くんにとっては魅力的でした)
この間にある「麦くんとミス・アイスサンドイッチが会話をする場面」もいいんですよね。
最初は会話文もすべて地の分で、ふわふわした夢見心地のような文体なんですけど、別れ際、一行空いた後はちゃんとセリフにカギかっこがついて、場面が客観的に映し出される。徐々に夢から醒めて、現実が訪れている様子をうまく表現しているなと思います。
ぼくは、あのお店にサンドイッチを、買いに行ってました。ああ、知っているような気がする、とミス・アイスサンドイッチは言った。それから、お店をやめてしまうんですね、とぼくはつづけて言った。そうなの。そうなんですね。そうなのよ。
「やめ、やめるんですよね」
「そうそう。結婚して、ちがうとこに行くんだよ」
「結婚するんですか」
「そうなの」
「そうですか」ぼくは何度も肯いて、またそうですか、と言って、また肯いた。
「じゃ、わたし行きますね」とミス・アイスサンドイッチが言った。
「絵、ありがとうね。元気でね」
麦くんの目からは浮世離れした魅力を感じていたミス・アイスサンドイッチが、しゃべってみると案外普通の人だった、てところもいいですよね。
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大人びた彼らの「子どもらしさ」
そして「ミス・アイスサンドイッチ」の章では麦くんを諭す役割だったヘガティーも、「苺ジャムから苺をひけば」の章では大人の世界に戸惑い、悩み、成長します。
子供の成長を描いた小説は沢山ありますが、この本は「大人びた子ども」が「大人」の世界を知る、というところが最高ですよね。
麦くんやヘガティーは周りの子たちに比べ達観していて、大人びています。それでも彼らは、独創性、繊細な心など、「子ども」らしさをちゃんと持っている。それゆえに大人の世界に戸惑い、子どもらしさの部分が揺り動かされる。
この子らもやっぱり子供なんだな、と思えるのが最高にいいですね。
『あこがれ』は子供にしかない世界を川上未映子先生の筆力で再現し、子どもが大人になる瞬間を体感できる点で大好きな小説です。
部分的にしか好きなポイントを書けませんでしたので、時間があったらもうちょっと加筆したいと思います。(ヘガティーの章とか)
みなさんの『あこがれ』感想もお待ちしています~