音楽

星野源『桜の森』歌詞のエロさを棚に上げ新説を試みる

『桜の森』ってエロいよね

星野源の曲の中では『桜の森』が一番好きです。

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歌詞全体のストーリーが好き。春の森の中で、「ただ僕は君をみている」だけ。

こんな風景画みたいな曲は珍しいなあと感じます。

なので、発売当時からよくリピートしていたんですが、聞いてるうちになんか「エロくないか?」と思い始めてきました。

「花びらに変わる君」とか「胸を開け 足を開け 踊るならば」とか。

思えば「あそこの森の 満開の下」なんでモロに聞こえてくる。

と思って調べてみたら、やっぱりというか、男女の行為をモチーフにした曲みたいですね。源さん本人がインタビューで語っていたそうです。

確かに源さんはそこらへん割とオープンだし、『Snow Men』『Week end』みたいなエロを暗喩している曲も多くあるので、さもありなんか。

そうはいっても、この風景画を「性」のひとつだけの解釈で済ませてしまうのはなんかもったいないなーと思ってしまうので、本人の明言を無視して、ほかに解釈できないかなあと試みてみます

元ネタの小説『桜の森の満開の下』についてはこちら。

『櫻の木の下には』『桜の森の満開の下』あらすじと比較まとめ。

星野源の著作一覧についてはこちら。

文筆家・星野源の書籍まとめ!源さんの歴史を綴った7冊

歌詞

あそこの森の 満開の下は
虫もその他も 土を開け 外に出てくるだろう
どけそこどけ 欲しいのは光
君もその他も 胸を開け 足を開け 踊るならば
 
僕は それをただ見てる それをただ見つめてる
鬼達が笑う それをただ見つめている
僕は ただ見てる それをただ見つめてる
花びらに変わる 君をただ見つめているよ
 
どこぞの森の 満開の下で
虫も貴方も 土の中 外に憧れたろ
悲しみ消えた 春風がさらい
もしもよければ 胸を開け 足を開け 跳ねるならば
 
僕はそれをただ見てる それをただ見つめてる
花びらに変わる 君をただ見つめているよ
 
泣かないで待ってる
散らないで待ってる
ラジオから流れる
花びらが流れる
 
僕はただ見てる それをただ見つめてる
鬼達も笑う それをただ見つめている
僕はただ見てる それをただ見つめてる
花びらに変わる 君をただ見つめているよ

新説①:才能開花の歌?

『桜の森』の歌詞エロい説、それを踏まえて歌詞を見るとなるほどねと思う箇所がたくさんあるのですが(そりゃそうだ)、ただ一つ気にかかるのは「ラジオから流れる」の歌詞。

こりゃなんだ?といまいちわかんない。

僕は「エロ」のメタファーに気づく前は、「表現者の『君』を静かに応援している歌」かなと思ってました。

「君」は歌手。しかしうだつが上がらない。「音楽」が好きという気持ちを原動力にしてただ歌い続けている。

その確かな努力が実を結び、ある日その眠れた才能が開花するとき、「君」が花びらのようにいきいきと舞い踊り、跳ねる姿を、ずっと近くにいた「僕」は「ただ見てる」、って感じ。

「虫やその他」はあふれ出す才能。「鬼達」は時に無情に批評的な聴衆

この解釈なら「ラジオ」の箇所もすっきりします。

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そして「才能開花の歓び」を表現する「春」という曲を包括するモチーフ。

僕はこの解釈が割と好きなので、これで聴いてます。源さんゴメンナサイ

新説②:死にゆく「君」?

僕がこの曲を好きな理由の一つに、「切なさ」があります。

はつらつとしたイメージがあふれるものの、どこか寂しさというか、切なさが垣間見える。

それはやはり「花びら」というモチーフにあるのかなあと。

これに注目してみると、「花びらに変わる君」は「死」を意味してるんじゃないかなあと思いました。

「死」を根底にもう一度歌詞を見ると、「鬼たちが笑う」「悲しみ消えた 春風がさらい」「泣かないで待ってる 散らないで待ってる」もまた色合いが変わります。

愛する「君」を「僕」が静かに看取っている?

「死」に「春」はなんか違くない?とも思いましたが、闘病生活の厳しい冬を越えた先の、最期の瞬間に「春」が訪れるのは素敵だなあとも思います。おもいませんか?

身体から解放されようとする魂が昇華する姿には、「春」の背景が似合う気がします。

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終わりに

こんな感じで「エロ」という答えを差し置いて「開花」「死」の新説を考えてみました。

源さんが明言しているわけだから『桜の森』の解釈はエロ、が正解なわけだけど、それでも同じ歌詞からこのような解釈も可能ということは、「エロ」「才能開花」「死」というキーワードが何かの要素を共有しているということじゃないでしょうか。

という感じで自分の勝手な解釈の正当化をしておきます。