このブログのコンセプトが「小説以外を紹介する」なので、小説を紹介するのは多少控えていたのですが、ちょっと心を揺さぶられた小説を見つけてしまったので書きたいと思います。
川上未映子の処女作品集だそう。表題と「感じる専門家 採用試験」の二編が収録されています。
今回は表題のみに触れます。
この掌編は「わたし」の一人語りで進んでいきます。数ページ読むと、この「わたし」という人間がただならぬものであると分かります。
冒頭で「わたし」は自分の「核」足る部分を「奥歯」に見出します。はて?という感じですが、この理由を自らご丁寧に説明している箇所を引用します。
脳のあらへん状態で・私が存在したことが・この今まで一度もないのであって・脳がないなら私はいないと・そういうことは云いたくはなるけど脳があるかぎり誰にも証明することができません・そやので私というものは・脳とは関係ないかも知れませんしもしかしたらやっぱり関係のやも知れませんけれども・人がどこ部で 考えてるんかということが・もちろんそれが脳であっても全く全然何も問題ないんですけど・脳なしで考えたことがない以上は・私はかかとで考えてるのかも知れへんし・肩甲骨で考えてるのかも知れへんし・もしかしたらベタに目玉で考えてるのやも知れませんし・でもってそれらのどれもが欠けたことがないのであってこれはじっさい、大変やあ・ほかにも細胞のいっこいっこが考えてそれがどっかに集合しているというような手もあるけれども・いったいどこ部に集合しているの・これはこれで大変やあ・これはすべて並列な可能性・なので私は・鏡の奥に映して見える・鏡の奥に映せば見える・この奥歯を私であると決めたのです
このぬちゃっとした語り口調、この理論、「私」という人間がちょっと異常な人間であることが分かると思います。
「脳で考えてるとはわからないじゃないか」というのはまだわかるとして、そのあとの「だから奥歯が私であると決めたのです」という着地は根拠がまるでなく、「私」が勝手に決めただけです。
このあとの様々な描写で明らかにされますが、彼女という人間の特徴は「自らの世界に住んでいる」ということ。客観世界はまるでなく、主観の世界が彼女の世界のすべてなのです。人間はだれしも主観世界と客観世界のバランスを取りながら生きているものですが、彼女の場合は主観世界が100。
「奥歯=私」は根拠がなくとも、自分自身がそう決めたからいいのです。
そしてここが本書最大のポイントで、この小説が「私」の一人称で書かれている以上、僕たち読者は「異常人」の視点を共有して世界を見ることになります。
先の引用に見たキモチワルイ文章を受け入れながら、彼女の世界を体験することになります。
語り口調からある程度想像できますが、「私」の生活は客観的にみれば恵まれているとは言えません。
生まれつき歯が丈夫な「私」は歯科助手として生計を立て、そこで同僚に疎まれながらも深く気にするそぶりはない。
友達は(おそらく)いないけれど、恋人の「青木」の存在さえあれば幸せだと思っている。青木との将来の子供に向けた日記さえ残しています。キモチワルイ。
最大の山場は青木が歯科医を訪れた場面から。「私」は動揺し、何も話しかけず帰宅する青木を追いかけ、自宅のインターフォンを鳴らします。
玄関から出てきた青木の横には、「私」の知らない女がいました。
そこで「私」は思いのたけを、例の口調で激しくぶつけるのですが、返す女のやはり激しい言葉で、「私」(と「私」を共有している僕たち)は客観世界を突き付けられるのです。
このシーンがとてつもなく強烈で絶望的。
ここを契機として「私」の主観世界の全貌が明らかになっていき、そこに「私」が定住せずにいられなくなった経緯を表す一連の描写は映画的で、その重力に胸を圧迫されます。
主観世界が確立されている人間はよく言えば「哲学的」ともとられ、一つの個性として尊重されますが、この小説ではその主観世界が彼女を苦しませています。
一人称視点で書かれるからこその臨場感と絶望感、そして自分の世界を持つことについて考えさせられるこの小説は一生忘れられないものになりました。