こんな人にオススメ
- 視覚障害者の生活に関心がある人
- 自分の視野を広げたい人
目の見えない人は世界をどう見ているのか?
小さい頃から、気になっていました。
小学生のころ、総合学習の時間に視覚障害者の世界を体験する授業があったのを覚えています。
目隠しをして、杖を持って、補助を得ながら校舎を回る。歩き慣れている廊下も、目が見えないというだけで途端に未知の世界になりました。
この状態がずっと続いているなんてどんな気持ちなんだろう。
著者は伊藤亜紗さん。その内容から新書の中でも話題になった本なので、知っている方も多いのでは。
この本によって、僕は自分の「当たり前」を広げることができました。
この本には見えない人がどのように生活しているのか、とか、どういうトラブルがあるか、のような事も書いてありますが、このページでは僕が知ってよかったと感じた「感覚」に重点を置こうと思います。
四本足のイスと三本足のイス
まず僕の中で誤解があったのは、「視覚障害=晴眼者-視覚」という方程式(晴眼者とは視覚障害を持っていない人のことです。この本で初めて知りました)。
小学生での視覚障害者体験の、「目が見えなくなったらこんなに大変なんだ。視覚障害者の人も同じ思いなんだ」という感想をずっと引きずっていたんです。
そうではなく、見えない人にとって、目が見えないことは当たり前。ずっと目を使わずに生活しているからです。
視覚は所詮、五感のうちのひとつでしかありません。視覚の役割である空間の把握を、見えない人は他の感覚を使って行っているに過ぎないのです。
空間把握の仕方は、音の反響であったり、足裏の感覚であったり千差万別。体を壁にぶつけながら建物を確認する方法もあるのだとか。
著者の伊藤さんは、「晴眼者が四本足のイスだとしたら、視覚障害者は三本足のイス」という例えを用いています。
四本足と三本足のあいだに優劣はありませんよね。三本足は三本をバランスよく用いて、問題なく自立しているのです。
坂道?丘?
見えない人は視覚からの情報がありません。
僕たちが視覚で得ている情報を視覚以外で得ていることになるんですけど、そうすると世界の捉え方が違ってくるんですよね。
例えば、見えない人にとって、「道」はありません。
言われてみればそうかも。A地点からB地点までの道なんて、視覚でしか確認しませんよね。
もっと具体的な事例で言うと、A駅から建物Bへ坂道を下っていく時、視覚障害者の方はその道程を坂道とは捉えません。「丘を下っている」と認識しているのです。
これは面白くないですか?見えない人には道が見えません。その代わり、僕たち見える人には、丘を見ることが出来ていないのです。
視覚には必ず視点があります。そのため、その情報はどうしても主観的になってしまう。
見えない人は空間を俯瞰的に把握しているのです。これは見える人にはやろうと思ってもなかなかできません。
見えない人は自由
この本では、見える人は視覚から得る情報が多すぎる、と述べています。道を往くにしても、派手な看板、見たことも無い抜け道、標識やお店など。コンビニに行くにしても、目的のものがあっても取り敢えずひと回り、という人もいますよね。ついつい買いすぎてしまったり。
「視覚によってたくさんの情報を使いこなせる!」と自信満々に言えればいいですが、そうでしょうか。
見える人、僕たちは、情報に動かされているだけなのではないでしょうか。
見えない人は、不必要な情報を入れない分、環境に対して自由であるとも言えます。
先程見えない人は道が見えないと書きましたが、それは見えない人は道から解放されているとも言えるのです。
見えない人の美術鑑賞
目の見えない人も美術鑑賞を嗜むことがあるとか。どうやって?
手で触って楽しむ、という鑑賞方法もありますが、興味深かったのは著者が「ソーシャル・ビュー」と呼ぶ鑑賞法。
見えない人がグループを組んで絵画の前に立ちます。そこで、引率の見える人による説明を聴きながら、映像を想像するというものです。
もちろん、実際の絵画と想像による絵画は異なるでしょう。
しかし、得られるヒントから自分の想像力(創造力)を駆使して、新しい絵画を「創り直す」行為は、とても素晴らしい芸術活動だと思います。
見えない人は見える人に見えない世界を見ている
僕が考えていた「見えない人=見える人-視覚」の方程式は間違っていました。
この方程式だと、見えない人は自分より劣る存在、という認識になってしまいます。
見える人が見えない人には得られない情報があると同じく、見えない人には見える人に見えない世界が見えている。
視覚障害者に対しての認識が大きく変わった、忘れられない本です。