『つむじ風食堂の夜』は吉田篤弘の代表作です。
僕も吉田篤弘作品を多く読んでいますが、この本は吉田篤弘らしさがつまった、最も「吉田篤弘らしい小説」だと思っています。
その心は3つ。
- 「一人」の寂しさが漂っている。
- 人の死を抱えている。
- 起承転結の「承」に終始している。
この3つです。
説明します。
「ひとり」が集まる場所
僕は、この作品の魅力は次の引用部分に詰まっていると思います。
いま、どこか遠くの闇の中を列車が行き過ぎるとしたら、われわれ三人を包んでいるこのちっぽけな灯は、列車の窓にほんの一瞬かすめるだけなんじゃないか?
私は、そんなことばかり考えていた。
『つむじ風食堂の夜』p158
これは物語の終盤、古本屋のデ・ニーロの親方が突然開いた屋台に、果物屋の青年と「私」(雨降りの先生)と三人でだべっているシーン。
彼らが集まるこの空間は、列車に揺られる大勢からしたら「ほんの一瞬かすめる」だけの存在。
そんな空間に生きている人々の群像劇が『つむじ風食堂の夜』だと思っています。
この小説に出てくる登場人物はみんな「ひとり」です。
語り手である「雨降りの先生」をはじめ、役者の奈々津、帽子屋の桜田さん、食堂の店主、果物屋の青年やデ・ニーロの親方も基本ひとり。
そんな彼らが方々から集まるのが「つむじ風食堂」。十字路の四方から風がぶつかりつむじを生み出すように、その食堂に「ひとり」が寄りあいます。
登場人物たちはそれぞれ表情豊かで愉快ですが、この小説には終始「寂しさ」が漂っています。
あからさまではないけれど、背景にずっと「寂しさ」の色が潜んでいるような。
これは「ひとり」の集合であるこの舞台設定に由来しているのではないかと思います。
親方の屋台やつむじ風食堂は、一人の人間が集まった、どこか浮世離れした空間。
その静かで幻想的な世界は魅力的であり、寂しいものです。
奥行きのある人物たち
『つむじ風食堂の夜』の魅力の一つに、「奥行きのある人物描写」があげられます。
彼らはひとりひとりに過去があり、その過去を背負って生活を営んでいます。
決して、小説という虚構の中の要素として性格が規定されているわけではありません。
印象的なのはやはり屋台でのこのシーン。
「寒さが来たんですねぇ」
青年もまた、白い息を吐きながら嬉しそうだ。
「チェーホフが読みたくなります」
「おい、青年」と、親方が不機嫌そうな声で彼を睨みつけ、「俺の前で本の話をするでない。俺はな、いま本のことなんか一切忘れちまいたいんだ。な?いまは、油揚げのこと以外、何も考えちゃいかん。な?分かったな?」
「わかりました」
私もそうすることにした。
そうすることにしたが、実際のところ、三人とも油揚げのことなど考えていなかったに違いない。
同p157
この小説ではすべてを語りません。彼らが油揚げのことを考えずに何を考えていたかは物語では描かれません。
しかし、暢気なように見える三人が自分の知らない何かを考えるこの描写は、本来の人間関係(他人にはそれぞれ自分の知らない悩みを抱えている)を思い出させる一シーンだと感じます。
そして、キャラクターの奥行きはキャラクターの哲学を呼びます。
桜田さんのコペンハーゲン理論、果物屋の「ここ」問題など、彼らに背景があるからこその哲学もこの小説(ひいては吉田篤弘作品)の見どころです。
「承」だけの物語
吉田篤弘作品に通貫するテーマであるのが、「起承転結をすべて書かない」。
「物語には本来終わりも始まりもないはずなのに、紙面の都合で一区切りをつけなければいけない」というのはトークショー等でたびたび話している、篤弘さんの小説の考え方。
「小説の区切り問題」については、『圏外へ』や『京都で考えた』等で直接問題にしています。
この『つむじ風食堂』についても、起承転結は書きません。
描かれるのは『承』の一部分だけ。
息をつかせぬ展開も、大団円もありません。
ただ他人の生活を眺めているような感覚です。
しかしこの『承』だけの構成が、寂しい雰囲気と合わさって静かな読み心地を生み出すし、生々しいキャラクターの奥行きを生み出しているのだと思います。
『つむじ風食堂』をはじめとした吉田篤弘作品は、エンタメ性を求めて一気読みするタイプではありません。
むしろ落ち着いた夜に、長い時間をかけて少しずつ進める本だと思っています。
終わりに
以上、
- 寂しさが潜む
- キャラの奥行き
- 承だけを描く
の3つを兼ね備える『つむじ風食堂の夜』は、吉田篤弘作品の魅力がすべて詰まった作品であるという話でした。
篤弘作品が好きな人は絶対にハマる一冊なので、まだ読んだことない人はぜひ読んでみてください。